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解説その3Badges

日本にトドメを刺す絶望的司法

バラエティ番組の「ドッキリ」の仕込み役に見えた“裁判官たち”——「出世」と「保身」に支配された法服の官僚

スーパーホテル裁判(地位確認等請求事件)を通して、「民事裁判」について、簡単に触れつつ話を進めたい。

日本の裁判制度は、原則3回までの反復審理が受けられることになっている。これを「三審制度」というが、事実上は「二審制度」に等しい。

当該裁判で言えば、当事者は、「原告メンバー」と「被告スーパーホテル」の両者が、これに当たる。東京地方裁判所(以下、東京地裁と略す)に申し立てたのが、第一審だ。第二審は、当事者が第一審の判決に不服がある場合、上位の裁判所に当たる東京高等裁判所(以下、東京高裁と略す)で審理される。

地裁、高裁で行われる裁判を「下級審」というが、事実認定を行う「事実審」である。まず、発生事実を認定し、法律に該当するかを判断して、判決を下す。

これに対して、第三審の最高裁判所(以下、最高裁と略す)では、「法律審」が行われる。下級審の事実認定は変更せず、法律の適用について判断するのである。下級審の判決に当事者が不服でも、必ず最高裁へ上告できるわけではない。

上告は、憲法解釈の誤りや違憲であること、最高裁判例と異なる判決が下されたことなどの理由を書面として提出する必要がある。

ところが、最高裁は、ほとんどの上告を棄却するので、判決は確定してしまう。しかも、一度も口頭弁論が開かれることなく、つぎのように棄却され、判決が確定するのである。

上告裁判所は、上告状、上告理由書、答弁書その他の書類により、上告を理由がないと認めるときは、口頭弁論を経ないで、判決で、上告を棄却することができる。

民事訴訟法第319条

しかし、統一教会の「念書の有効性」について、弁論が開かれた話をのちに紹介するが、ごくまれに上告が受理さえるケースもある。けれども、ほとんどの上告が棄却される実態に変わりはない。

ゆえに日本の裁判制度は、事実上「二審制」と言えよう。

当該裁判の場合は、裁判官は、3人の「合議制」が採用されている。地裁では、「1人制または3人の合議制」のいずれかとなるらしい。高裁と最高裁は、基本的に複数の裁判官による「合議制」だ。

裁判の流れを見て行くと、裁判所に訴えを提起する原告の「訴状」からはじまる。つぎに被告が訴状に応答する「答弁書」を裁判所に提出する。それから原告・被告が自己の言い分を書面化した「準備書面」を提出する。

このあたりから裁判長の「争点整理」という言葉に合わせ、補充する準備書面をつくって“裁判官に理解してほしいこと”が、原告・被告から提出され続ける。これらの書面には「証拠説明書」も合わせて、裁判所に提出する。原告は証拠書類を「甲号証」、被告のものは「乙号証」として、ナンバーリングして行く。

基本的に“口頭弁論”は場所と時間の制約があるので、“書面中心”に審理が進む。

実体験で言うと、裁判官は時間がないとして「映像」や「音声」の証拠は、ほとんど見たり聴いたりしない。“紙面”に起こせるものでないと、証拠として扱われにくい。

たいていの裁判官は、証拠ではなく証拠説明書しか見ないそうだ。

裁判長には、別の思惑があり、早期に「和解」させようと恫喝や泣き落としなどで誘導し、原告の説得を続ける。ひとつの理由には、裁判官の責任となる“判決を書きたくない”からだそうだ。

また、2003年(平成15年)成立の「裁判迅速化法」により「2年以内のできるだけ短い期間内」に終局させたいからでもあるらしい。

そうこうして、補充の準備書面を原告・被告の双方が出し尽くしたころ、裁判官は和解を諦めて、「証拠調べ」に入って行く。このあとは、結審となるので裁判官の「判決」を待つだけとなる。

証拠調べは、すでに「書面」で提出した証拠に加えて、証人尋問によって「人間」の“証言”を集中的に聴取するものである。

もっと詳しく知りたい人は、『裁判所』のホームページを見てほしい。

元エリート裁判官の瀬木比呂志氏が書いた『絶望の裁判所』(講談社現代新書、二〇一四年二月一九日)の「はしがき」には、つぎのようなデータが引用されている。

民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに一八・六%にすぎず、それが利用しやすいと答えた割合も、わずかに二二・四%にすぎないというアンケート結果が出ている(佐藤岩夫ほか編『利用者からみた民事訴訟――司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』〔日本評論社〕一五頁)。

瀬木比呂志著. 絶望の裁判所. 講談社現代新書, 2014年2月19日, p5

日本の訴訟制度に“80%近い人”が不満や不便を感じるのは、よくわかる。しかも裁判を利用する前より、利用した後の方が、はるかに評価が悪くなっている。瀬木比呂志氏は、「右の大規模な調査によって、それが事実であることが明らかにされたのである。」と述べている。

たしかに感想として、「我々の社会秩序と正義を守る、これが裁判所なのか?」と思ってしまうことだ。

同書を読んで裁判に臨めば、さらに予想したタイミングで“ばかばかしい落胆”が待っている。同書の「はしがき」には、メンバーたちが体験した「理不尽な和解工作」についても、つぎのように触れられていた。

あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。裁判所に行くと、何が始まるだろうか? おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「和解」を勧められるだろう。和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。

瀬木比呂志著. 絶望の裁判所. 講談社現代新書, 2014年2月19日, p4

別に、この本を売ろうとするのではなく、現実にたくさんの原告が和解の「押し売り」を裁判長より受けているのだ。実際に最高裁判所事務総局『令和5年司法統計年報 1 民事・行政編』の「第19表」から抜粋して作成してみると、つぎのとおりに一目瞭然である。

令和5年の全地方裁判所における第一審既済事件が「金銭を目的とする訴え」の「うち労働に関する訴え」のもっとも多い終局は、1位:「和解(62.5%)」、2位:「判決(総数:26.1%)」であった。

1位の和解が、2位以下に圧倒的大差をつけた形となっている。

初体験の裁判において、裁判官の言葉はとても重いはずだ。その裁判官が和解を勧めると、自然と応じてしまう心理が働くことがよくわかると思う。

こんな深刻な問題が、なぜ世間に知れ渡ってないのだろうか―—

ついでに同年報の「第21表」から同じく審理期間をつぎのように調べてみた。

全地方裁判所における第一審既済事件が「金銭を目的とする訴え」の「うち労働に関する訴え」のもっとも多い審理期間は、1位:2年以内(41.8%)であり、当該裁判のように審理5年を超えるものは、「0.8%」しかなく、“異例の長さ”ということがわかる。

今度は、裁判を審理する「法廷」と「裁判官」などについて見て行こう。

当該裁判は、すでに5年が経過しており、3人の合議制で審理されてきた。これまで裁判長を含めて、4人くらいが交代している。よく弁護士ドラマなどで判決を言い渡す“法廷の場面”があるが、実際と同じでイメージとおりの場所である。特に意識してドラマを見ていないと思うが、裁判官の座る位置は、つぎのように立場を識別する慣例になっている。

法廷イメージ

中央に座るのが、ベテランの裁判長である。裁判が開かれる日を“裁判期日”というが、裁判長は法廷で都合が悪い話をするときには、「進行協議」と言って、傍聴者を法廷から退出させる。

たとえば、和解の押し売りを裁判長より受けたのは、この進行協議であった。裁判期日のたび、半分の時間は進行協議に当てられており、裁判長より「執拗な和解工作」を受けていた。しかし、裁判は原則として公開の法廷で行われることが、つぎのように定められている。

裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。

日本国憲法第6章司法第82条第1項

②裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

日本国憲法第6章司法第82条第2項

裁判の公開が原則であることのみならず、国民の権利の「労働者性」を判断する本件の場合は、特に第82条第2項を意識して公開すべきであるはずだ。しかし、昭和60年報告は、すでに紹介の“自民党”が「労働者を事業者と見なす」ことにした制度である。

当該裁判は、国の制度に異を唱える「行政訴訟」の性格を帯びていた。

裁判官は、当然のように先入観(出世に必要なもの)をもって審理する。ある法律事務所によれば、行政訴訟の勝率は「10%程度」と言う。それが先入観をもって臨んだ当然の帰結であった。

したがって、裁判審理は、裁判官がイメージする「原告は悪」、「正義のスーパーホテル」という構図のまま、終始、和解工作か省略、原告不利に進んで行く。そうでなければ、傍聴人を退室させられる進行協議を語り、毎期日に和解工作するはずがないことは、明々白々なのだ。

こうした反則プレーを審理の誘導や牽制などに使う“ずる賢さ”と“図々しさ”を合わせ持つ、経験年数の長い人物が東京や大阪のような大地裁の裁判長となるようだ。

この裁判長から見て、右側の席を“右陪席”と呼び、「中堅の裁判官」が座る。左側の席には“左陪席”の「新人の裁判官」が座る。以下、右陪席、左陪席と略す。

瀬木比呂志氏の同書は、「裁判所の問題点」に警鐘を鳴らすものであり、メンバーたちに裁判官の意図を予測させるのに役立った。

当然のように裁判の「審理」は、茶番劇に見えてくる―—

法廷という非日常的な空間にいるせいか、“強引に”裁判を進めようとする裁判長の姿は、バラエティ番組の“仕込み役”の「司会者」に思えてしまう。裁判官たちの言動は“演技”のようで、法服はテレビ局の“衣装”に感じてしまい、吹き出しそうになることもあった。

そうしたせいか達観してしまい、裁判官たちを観察して見えたことがある。それは、裁判官たちが事件に“まったく興味がない”ことだ。眠たそうにアクビをする左陪席、ひたすら和解を持ち出す裁判長、そして、本質を理解しているのか怪しい、首をかしげるだけの右陪席。

裁判官こそ、多彩な社会経験を有した者から任命すべき存在である。

ところが、これまで見てきた裁判官たちは、司法の官僚のようであった。官僚は、法律に基づき仕事をする。決して自ら判断して仕事はできない。卒なく仕事を早く処理することが評価につながる。

しかし、裁判官の仕事は、“官僚のもの”とは、まったく異なるはすだ。

さまざまな事件に潜む本質を理解して、原告と被告の主張から“書くべき判決”においてのみ、評価を得る存在であろう。メンバーたちが見た裁判官とは、事件処理の量ばかり気にして、自らの判決が与える社会的影響を一顧だにしない。

波風立てずに出世したい――ただ、それだけの公務員だった。

《あなたはヒドイ国に住む》「労働法」を勉強しなくても裁判官になれる!——【労働法の素人が裁く】まさかの『労働裁判』

憲法第76条第3項には、「裁判官」をつぎのように規定している。

すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。

日本国憲法第6章司法第76条第3項

本当にそうだろうか?当該裁判の「判決のゆくえ」だけでも、そうでないことがわかる。3人の合議制による意思決定は、裁判長に左右されると言っても過言ではない。

特に裁判長は、教育指導者でもある。右陪席より知識が豊富であり、自己の意見を教示することが左陪席の指導となってしまう。当然の帰結として、「裁判長の意見が“多数派”」となりやすくなる。

つまり、合議制の地裁判決は、「裁判長の意向」を反映しやすくする制度と言えよう。

こうした制度の地裁では、裁判官の良心に従った「独立した職権行使」ができるとは思えない。

そもそも裁判官は、キャリアスタートから「出世と保身」を体現した存在のようである。彼らのキャリアは、地裁か家庭裁判所(以下、家裁と略す)からはじまる。

裁判所法第43条によれば、司法修習を終えた者の中から「判事補」に任命される。そして、裁判所法第27条第1項と第2項によって、左陪席の判事補は一人で裁判できず、合議体の裁判に加わり、裁判長になれない。

教師役の裁判長に対する優等生となるべく、左陪席は裁判長の意を汲んだ「迅速に卒なく」事件をこなそうとする。10年間、この反復を続ければ、判事への“昇格資格”が得られるのだ。

当該裁判の裁判長2人のつぎの経歴でもわかる。

出典『弁護士山中理司のブログ(https://yamanaka-bengoshi.jp/2021/05/03/itou46-2/#google_vignette)』より

出典『弁護士山中理司のブログ(https://yamanaka-bengoshi.jp/2021/04/01/kakutani50/)』より

当たり前のことだが、両裁判長も「地裁判事補」として、合議制でキャリアを積んだ。伊藤由紀子氏は「H6.4.13」に任命され、角谷昌毅氏は「H10.4.12」であった。両者とも、きっちり10年目の“同月同日”に「判事」に昇格している。

裁判官人生をルールとおりに昇進するには、何が必要か?

それは裁判官でなくとも、社会経験があれば想像がつくはずだ。卒なく迅速に仕事を処理すること。さらに「長い物には巻かれろ」という姿勢で働くことだ。

すなわち、法服を着た司法官僚こそ、裁判官の核心を指した言葉ではなかろうか。

人々には、裁判官が「悪を裁く法の番人」という期待があるはずだ。少なからず日本人の胸中には、裁判所の存在が立派な国に住んでいると想起させると思う。

しかし、司法について学べば、学ぶほど“意外な”実態を知り、さらに愕然としてしまうのだ。「業務委託契約、個人事業主の働き方を考える勉強会」に参加したときのことである。講演した橋本教授は、ジャーナリストの質問に答えて、ドイツでの研究生活中のエピソードを、つぎのように語った。

労働法を勉強しない人(裁判官)もいると思います。ドイツには“労働裁判所”があって労働法しかやらない。東京地裁の裁判官がドイツに研修に来て、はじめて労働法を勉強することにドイツの裁判官が驚いていて。私は、「どうやって専門性を獲得するのか?」と、ドイツの裁判官から何度か質問されたことがあるんです。

日本の司法では、大学や大学院、さらに司法試験及び予備試験においても、「労働法」は一度も学ぶことなく、裁判官になれるのだ。異動辞令を受ければ、労働法の“素人”が「労働裁判」を裁くのである。

誰が聞いても戦慄する事実ではなかろうか!

なぜ、専門性が獲得できないキャリアパス制度が司法に存在するのだろうか。素人には難し過ぎる話である。しかし、素人でも裁判官について理解を深めることはできる。

たとえば、YouTubeには「関西テレビ報道情報局」の公式チャンネルがあり、そこに裁判官のドキュメンタリーがあった。『ザ・ドキュメント』という番組で放送したものであるようだ。その中で“優秀な”裁判官の評価基準を紹介している。

それは、「不動の判決」を書く裁判官のことである。

地裁の判決ならば、最高裁まで判決が変わらないものを書く裁判官のことだそうだ。

では、当該裁判の「角谷昌毅(カクタニ・マサタケ)」裁判長は、「不動の判決」を書く裁判官なのだろうか。少し過去の判決報道を調べてみた。

結論から言うと、原告に「完全敗訴」を覚悟させる人物だった。

名古屋地裁の在籍時、2020年(令和2年)6月5日のHUFFPOST『「裁判所は、人権の砦ではなかったのか」同性パートナーへの犯罪被害者給付金を認めない判決、弁護士らが強く反論』は、最高裁まで争われた。角谷裁判長の判決は、原告の「敗訴」であったが、最高裁は原告の「逆転勝訴」としている。

2020年6月26日のBuzzFeed.News『生活保護費引き下げを容認する判決は法治国家の放棄? 木村草太教授「法律の文言も趣旨も無視している」』において、東京都立大学木村教授は角谷裁判長の人物評を端的に表現した。

そして、2020年6月29日のダイヤモンドオンライン『生活保護費減額に「最低」と言われる判決を下した名古屋地裁の論理』では、つぎのように掲載された。

6月25日、最初の地裁判決が名古屋地裁で言い渡された。緊張感が漂う法廷に入ってきた角谷昌毅裁判長は、「原告らの請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする」という判決を述べると、足早に法廷から去った。傍聴席からは「不当判決だ」という叫び声が上がった。原告の完全な敗訴である。

2020年6月29日 ダイヤモンドオンライン 『生活保護費減額に「最低」と言われる判決を下した名古屋地裁の論理』

生々しい判決の言い渡し状況が描写され、原告敗訴の落胆を伝えた。角谷裁判長が「足早に法廷を去った」という表現で人物評が加えられている。やはり、この判決においても、2023年(令和5年)11月30日の朝日新聞『国による生活保護引き下げは違法 初の国賠も認める 名古屋高裁』のように原告の「逆転勝訴」で終わっている。

しかも、角谷裁判長が下した名古屋地裁の「間違った判決」は、名古屋高裁のみならず最高裁がダメ押しで原告勝訴を確定させた。

角谷裁判長は、どうも不動の判決を書ける人物ではないようだ。

それもそうである。裁判官たちは、事件の理解を深めて「社会正義や公益」に思いを巡らせるより、卒なく迅速に「上司の意を汲み取る」判決を書けば、良いからである。

おそらく角谷裁判長は、如何なる事件であろうとも“躊躇なく”事務的に「間違った判決文」を書くことができるはずである。

【最高裁判決】に見る政府自民党の『下請け司法』——裁判官たちの「間違った判決」が壊す“日本社会”

裁判官が書く判決には、明らかに「間違った判決」がある。その典型例は、統一教会に関連する献金返還の裁判であろう。 

ある高齢女性が教団側からの執拗な献金催促によって、1億円以上もの高額な献金を行ってしまう。すでに亡くなった夫と共に、丹精込めて育てた果樹園の売却金も、そこには含まれていた。高齢女性は、老後の生計を立てる貯金を失い、教団を脱会する。

2015年(平成27年)に高齢女性の娘が帰省した際、この事実を知り、悪質な献金の返還を教団側に求めた。しかし、教団側は返還に応じず、親子は提訴に踏み切った。

すると裁判において、教団側より「驚くべき証拠」が提出される。それは、「寄付ないし献金は、私が自由意思によって行ったもの」「損害賠償請求など、裁判上・裁判外を含め、一切行わないことをここにお約束します。」と印刷された『念書』であった。この念書には、高齢女性の「署名」と「押印」がある。

さらに教団側は、念書の作成について、高齢女性に意思確認させる様子をビデオに撮影まで行っていたのである。撮影当時、86歳であった女性は、認知症がはじまっていた。この7ヶ月後にアルツハイマー型認知症と診断されている。

裁判の争点は、「念書の有効性」である。

東京地裁(第一審)は、ビデオ撮影の内容について「映像のやりとりに不審な点は見受けられない」とした。また、念書は「正常な判断能力に基づいて作成された」と裁判官は述べ、念書は有効だと認定する。その結果、原告の訴えは退けられた。

そして、高裁審理中に原告の高齢女性は亡くなった。

もうひとりの原告であった高齢女性の娘は、東京高裁(第二審)でも争ったが、第一審と同じ判断を下す裁判官によって敗訴する。すでに述べたように第三審の最高裁は、必ず上告できるわけではない。上告は、憲法解釈の誤りや違憲であること、最高裁判例と異なる判決が下されたことなどの特別な場合しか開廷しない。

したがって、事実上の「原告敗訴」が確定したと言ってよい。

「悪」を勝たせる裁判官によって、「悪が正義」とされてきた。

もっと言えば、日本の司法が“正当な献金”だと、統一教会の犯罪行為にお墨付きを与えてきたのだ。詳しくは、つぎの報道を見てほしい。

この統一教会の判決は、「契約させたら金になる」という単純な利益源泉モデルを示しており、スーパーホテルのベンチャー支配人制度と称する「業務委託契約」が、締結した者を「奴隷化」させる手法と同じであった。

つまり、現金をじかに奪うか、労働を強制して現金化する違いしかない。詳しくは「自民党版現代奴隷制」を見てほしい。裁判官たちの「だましたもの勝ち」判決は、霊感商法や詐欺商法を行う統一教会のような犯罪組織を喜ばせ、たくさんの被害者を生み出してきた。

日本では、こうした犯罪組織が政府を動かせる勢力となっている。

現在、確認された統一教会に関係する政治家は、ウィキペディア『世界平和統一家庭連合と政界との関係』によると、「207人」もいる。そのほとんどが自民党の政治家である。

さらに特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウスが公開する「政治資金パーティー収入 裏金はおいくらでしたか?(裏金国会議員一覧)」の議員一覧と照合したところ、統一教会に関わる自民党の裏金議員は、「28名」もいた。

戦後、日本の独立から70年以上が経過した。その間、わずか4年ほどしか、自民党は野党を経験していない。自民党に集中する権力は、国民主権の「政策」をガレージセールのように「集票」「集金」のため、さまざまな団体・組織に売られてきた。

同時に政権与党であることは、「予算権」を握ることでもある。

司法の「裁判所」「検察」が要求予算を国会で通過させるため、自民党の言いなりで判例や解釈、不起訴などをひねり出してきたことは、想像に難くないことだろう。

事実、統一教会を「勝たせる判決」を裁判官に書かせてきた。

それ以外にも、東京高等検察庁の黒川検事長を閣議決定で定年延長した事件は、2020年(令和2年)のことであった。その東京高等検察庁において、裏金議員65名が一気に不起訴とされ、管轄の畝本直美検事長が、検察トップの検事総長に抜擢された。

中日スポーツは「新検事総長・畝本直美氏、女性初起用で注目も…自民党裏金事件では検察ナンバー2 「露骨なごほうび人事」「巨悪を助けて出世コース」の声」と報道している。

しかし、2022年7月8日11時ごろ、ちょうど判決の翌日に状況が一変する。

自民党の安倍晋三元首相は、天宙平和連合(統一教会系)のイベント”Rally of Hope Think Tank 2022″ に、オンラインでスピーチした。統一教会で安倍氏とつながるトランプ元大統領(当時)もスピーチしている。反社会組織との自民党総理経験者が親密な関係にあることは、一般人の目からも決定的となる証拠であった。

山上容疑者により安倍元首相銃撃事件を起きる。

これをきっかけに教団による高額献金の実態が全国報道された。先ほど述べた献金返還の裁判で原告だった女性は、この報道を受けて「教団を勝たせて終われない」という想いから、最後の望みをかけて最高裁への上告に踏み切る。

2022年11月29日、国会においても旧統一教会の「被害者救済法案」をめぐり、当時の岸田総理はつぎのように答弁した。

念書を作成させ、あるいはビデオ撮影をしているということ自体が、法人等の勧誘の違法性を基礎づける要素の一つとなり、民法上の不法行為に基づく損害賠償請求が認められやすくなる可能性があると判断をいたします。

第210回国会 衆議院 予算委員会 第8号 令和4年11月29日 発言番号081 岸田文雄

岸田総理(当時)の政府見解は、地裁や高裁の判決を覆すものであった。さらに2022年12月、統一教会の被害者救済法が成立する。

これまで一連の「旧統一教会関連の裁判」では、“はじめて”最高裁で弁論が行われた。弁論は、判決内容を変更する場合に必要な手続きであるそうだ。メディア報道により統一教会の反社会性が広まり、自民党が手のひら返しする事態となった。

それに「最高裁判所」が同調した結果と言える。

最高裁は、東京高裁の「映像のやり取りに不審な点は見受けられない」ことから「念書は正常な判断能力に基づいて作成された」とする証拠に基づく事実認定について、その証拠の“存在”を否定すること(岸田内閣の政府見解のまま)で「公序良俗に反して無効」としたのだ。

そして、「審理がつくされていない」として、東京高裁に審理やり直しを命じる。

最高裁の判決を受けて原告は、「やっとまっとうな判決が出た——」と感想を述べ、続けて「なぜもっと早く、それは(念書の有効性)最高裁でなくてもできるはずのことでした——」と報道陣に語った。

この裁判において、原告が第二審まで敗訴したのは、裁判官たちが「不動の判決」を書いたからだろうか。すなわち、裁判官は書面を読み込んで証拠を吟味し、原告・被告の主張を把握して、本質をつかみ、憲法にはじまる法に照らして判決を書いたのだろうか。

そうであるならば、最高裁の弁論は開かれるはずがない。

よく考えてみれば、念書とビデオ撮影という「自由意思契約の捏造」が裁判官に見抜けなかった。ただ、それだけの事件なのである。

最高裁の判決も、念書の有効性を「公序良俗に反して無効」という至極“的を得た”ものだった。もし、安倍元首相銃撃事件がなければ、最高裁は——こんなことすら見抜けない司法で良いのだろうか。

スーパーホテル裁判でも、メンバーたちはスーパーホテルから受けた深い精神的苦痛、正当な権利の救済を受けるために、働きながら東奔西走する殺人的なストレスの中、今日も調査・研究・告発に奮闘している。

自民党の労働者性判断基準(昭和60年報告)は、「労働者にフリーランスを自認するよう強要する」ひどいものだ。

裁判官の多くには、“労働法の素人”もいるはず——こうした裁判官の多くは、この基準に追随して「政府の下請け司法」のように振る舞うはずである。やっかいなことに、スーパーホテル事件は、統一教会の献金返還裁判と似ている。

それは、「契約締結の捏造」が同じように行われたからだ。

ゆえに裁判官は、まったく見抜けず、全貌を把握さえしていない。メンバーたちが勝訴するためには、最高裁が開かれるほど衝撃的な事件が起きないとあり得ないのか―—という状況。

中学の公民程度の知識で言うならば、三権分立のもと行政(政府)に対する法令の審査機関こそが「司法」であろう。裁判官は、独立した職権によって、主権者の国民を守る憲法を反映した「独自判断」を示さねばならない。

すでに紹介したとおり、スーパーホテル事件を含めて多くの「名ばかり個人事業主」の紛争には、日本が批准したILO強制労働条約が示す「2つの判断基準」に該当している。労基法と同様に条約も扱われるはずだ。

裁判長より「条約など関係ない、私が判断する」との言動もあり、多くの裁判官は、労働三法を知らず、「虎(司法)の威を借りた小役人」なのか―—世離れして、学ばず威張る「法服の官僚」であろうか―—

それでも司法が独立した判断を下さねば、日本が崩壊する。

裁判でも証拠提出し、本論でも提示したように「破産者」や「個人再生」させて働かせる―—そして、「暴行監禁」して働けと“恫喝”する。これらスーパーホテルからの高額賠償など強迫されて働き続けることは、契約義務によるものではなく、指揮命令権を行使する使用従属性を示すものであり、業務委託の「事業者」ではないはずだ。

ゆえに脅迫されて労働することを「強制労働」というのではないか。

「契約義務」と「個人の基本的人権」が矛盾するような制度設計に「司法」が明確な判断を下さねば、存在する意味がない。

自民党の犯罪合法化(派遣法・昭和60年報告)に、本来は「司法」が対決すべきであった。憲法の基本的人権を保障するために制定した「労基法」が脱法されたのだ。自民党の悪政を「司法」が野放しにしたから「今日の亡国化する日本」が生まれた。

ILO強制労働条約に批准した国で「強制労働」が復活しているのが、何よりの証拠である。

統一教会の「念書の有効性」の裁判とは異なり、すでに最高裁は「事業者性」をつぎのように定式化している。

個人代行店が自らの独立した経営判断に基づいてその業務内容を差配して収益管理を行う機会が実態として確保されていたか否か

ビクターサービスエンジニアリング事件/最3小判/平成24・2・21

この判断基準の「実態」が確保されていなければ、事業者とは言えない。すなわち、「事業者」でないものは「労働者」である。司法よ!労基法と労組法の「労働者」は同じ意義の労働者ではないのか!

憲法に従い判断せよ。司法よ、これ以上日本を壊すな――

もっと早く最高裁でなくとも、それはできるはず――これ以上、被害者にこの言葉を言わせては行けない。