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#1 バラエティ番組の「ドッキリ」の仕込み役に見えた“裁判官たち”——出世と保身に支配された『法服の官僚』

日本にトドメを刺す絶望的司法

スーパーホテル事件の裁判(地位確認等請求事件)を通して、「民事裁判」について、簡単に触れつつ話を進めたい。

日本の裁判制度は、原則3回までの反復審理が受けられることになっている。これを「三審制度」というが、事実上は「二審制度」に等しい。

当該裁判で言えば、当事者は、「原告メンバー」と「被告スーパーホテル」の両者が、これに当たる。東京地方裁判所(以下、東京地裁と略す)に申し立てたのが、第一審だ。第二審は、当事者が第一審の判決に不服がある場合、上位の裁判所に当たる東京高等裁判所(以下、東京高裁と略す)で審理される。

地裁、高裁で行われる裁判を「下級審」というが、事実認定を行う「事実審」である。まず、発生事実を認定し、法律に該当するかを判断して、判決を下す。

これに対して、第三審の最高裁判所(以下、最高裁と略す)では、「法律審」が行われる。下級審の事実認定は変更せず、法律の適用について判断するのである。下級審の判決に当事者が不服でも、必ず最高裁へ上告できるわけではない。

上告は、憲法解釈の誤りや違憲であること、最高裁判例と異なる判決が下されたことなどの理由を書面として提出する必要がある。

ところが、最高裁は、ほとんどの上告を棄却するので、判決は確定してしまう。しかも、一度も口頭弁論が開かれることなく、つぎのように棄却され、判決が確定するのである。

上告裁判所は、上告状、上告理由書、答弁書その他の書類により、上告を理由がないと認めるときは、口頭弁論を経ないで、判決で、上告を棄却することができる。

民事訴訟法第319条

しかし、統一教会の「念書の有効性」について、弁論が開かれた話をのちに紹介するが、ごくまれに上告が受理さえるケースもある。けれども、ほとんどの上告が棄却される実態に変わりはない。

ゆえに日本の裁判制度は、事実上「二審制」と言えよう。

当該裁判の場合は、裁判官は、3人の「合議制」が採用されている。地裁では、「1人制または3人の合議制」のいずれかとなるらしい。高裁と最高裁は、基本的に複数の裁判官による「合議制」だ。

裁判の流れを見て行くと、裁判所に訴えを提起する原告の「訴状」からはじまる。つぎに被告が訴状に応答する「答弁書」を裁判所に提出する。それから原告・被告が自己の言い分を書面化した「準備書面」を提出する。

このあたりから裁判長の「争点整理」という言葉に合わせ、補充する準備書面をつくって“裁判官に理解してほしいこと”が、原告・被告から提出され続ける。これらの書面には「証拠説明書」も合わせて、裁判所に提出する。原告は証拠書類を「甲号証」、被告のものは「乙号証」として、ナンバーリングして行く。

基本的に“口頭弁論”は場所と時間の制約があるので、“書面中心”に審理が進む。

実体験で言うと、裁判官は時間がないとして「映像」や「音声」の証拠は、ほとんど見たり聴いたりしない。“紙面”に起こせるものでないと、証拠として扱われにくい。

たいていの裁判官は、証拠ではなく証拠説明書しか見ないそうだ。

裁判長には、別の思惑があり、早期に「和解」させようと恫喝や泣き落としなどで誘導し、原告の説得を続ける。ひとつの理由には、裁判官の責任となる“判決を書きたくない”からだそうだ。

また、2003年(平成15年)成立の「裁判迅速化法」により「2年以内のできるだけ短い期間内」に終局させたいからでもあるらしい。

そうこうして、補充の準備書面を原告・被告の双方が出し尽くしたころ、裁判官は和解を諦めて、「証拠調べ」に入って行く。このあとは、結審となるので裁判官の「判決」を待つだけとなる。

証拠調べは、すでに「書面」で提出した証拠に加えて、証人尋問によって「人間」の“証言”を集中的に聴取するものである。

もっと詳しく知りたい人は、『裁判所』のホームページを見てほしい。

元エリート裁判官の瀬木比呂志氏が書いた『絶望の裁判所』(講談社現代新書、二〇一四年二月一九日)の「はしがき」には、つぎのようなデータが引用されている。

民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は、わずかに一八・六%にすぎず、それが利用しやすいと答えた割合も、わずかに二二・四%にすぎないというアンケート結果が出ている(佐藤岩夫ほか編『利用者からみた民事訴訟――司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』〔日本評論社〕一五頁)。

瀬木比呂志著. 絶望の裁判所. 講談社現代新書, 2014年2月19日, p5

日本の訴訟制度に“80%近い人”が不満や不便を感じるのは、よくわかる。しかも裁判を利用する前より、利用した後の方が、はるかに評価が悪くなっている。瀬木比呂志氏は、「右の大規模な調査によって、それが事実であることが明らかにされたのである。」と述べている。

たしかに感想として、「我々の社会秩序と正義を守る、これが裁判所なのか?」と思ってしまうことだ。

同書を読んで裁判に臨めば、さらに予想したタイミングで“ばかばかしい落胆”が待っている。同書の「はしがき」には、メンバーたちが体験した「理不尽な和解工作」についても、つぎのように触れられていた。

あなたが理不尽な紛争に巻き込まれ、やむをえず裁判所に訴えて正義を実現してもらおうと考えたとしよう。裁判所に行くと、何が始まるだろうか? おそらく、ある程度審理が進んだところで、あなたは、裁判官から、強く、被告との「和解」を勧められるだろう。和解に応じないと不利な判決を受けるかもしれないとか、裁判に勝っても相手から金銭を取り立てることは難しく、したがって勝訴判決をもらっても意味はないとかいった説明、説得を、相手方もいない密室で、延々と受けるだろう。

瀬木比呂志著. 絶望の裁判所. 講談社現代新書, 2014年2月19日, p4

別に、この本を売ろうとするのではなく、現実にたくさんの原告が和解の「押し売り」を裁判長より受けているのだ。実際に最高裁判所事務総局『令和5年司法統計年報 1 民事・行政編』の「第19表」から抜粋して作成してみると、つぎのとおりに一目瞭然である。

令和5年の全地方裁判所における第一審既済事件が「金銭を目的とする訴え」の「うち労働に関する訴え」のもっとも多い終局は、1位:「和解(62.5%)」、2位:「判決(総数:26.1%)」であった。

1位の和解が、2位以下に圧倒的大差をつけた形となっている。

初体験の裁判において、裁判官の言葉はとても重いはずだ。その裁判官が和解を勧めると、自然と応じてしまう心理が働くことがよくわかると思う。

こんな深刻な問題が、なぜ世間に知れ渡ってないのだろうか―—

ついでに同年報の「第21表」から同じく審理期間をつぎのように調べてみた。

全地方裁判所における第一審既済事件が「金銭を目的とする訴え」の「うち労働に関する訴え」のもっとも多い審理期間は、1位:2年以内(41.8%)であり、当該裁判のように審理5年を超えるものは、「0.8%」しかなく、“異例の長さ”ということがわかる。

今度は、裁判を審理する「法廷」と「裁判官」などについて見て行こう。

当該裁判は、すでに5年が経過しており、3人の合議制で審理されてきた。これまで裁判長を含めて、4人くらいが交代している。よく弁護士ドラマなどで判決を言い渡す“法廷の場面”があるが、実際と同じでイメージとおりの場所である。特に意識してドラマを見ていないと思うが、裁判官の座る位置は、つぎのように立場を識別する慣例になっている。

法廷イメージ

中央に座るのが、ベテランの裁判長である。裁判が開かれる日を“裁判期日”というが、裁判長は法廷で都合が悪い話をするときには、「進行協議」と言って、傍聴者を法廷から退出させる。

たとえば、和解の押し売りを裁判長より受けたのは、この進行協議であった。裁判期日のたび、半分の時間は進行協議に当てられており、裁判長より「執拗な和解工作」を受けていた。しかし、裁判は原則として公開の法廷で行われることが、つぎのように定められている。

裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。

日本国憲法第6章司法第82条第1項

②裁判所が、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審は、公開しないでこれを行ふことができる。但し、政治犯罪、出版に関する犯罪又はこの憲法第三章で保障する国民の権利が問題となつてゐる事件の対審は、常にこれを公開しなければならない。

日本国憲法第6章司法第82条第2項

裁判の公開が原則であることのみならず、国民の権利の「労働者性」を判断する本件の場合は、特に第82条第2項を意識して公開すべきであるはずだ。しかし、昭和60年報告は、すでに紹介の“自民党”が「労働者を事業者と見なす」ことにした制度である。

当該裁判は、国の制度に異を唱える「行政訴訟」の性格を帯びていた。

裁判官は、当然のように先入観(出世に必要なもの)をもって審理する。ある法律事務所によれば、行政訴訟の勝率は「10%程度」と言う。それが先入観をもって臨んだ当然の帰結であった。

したがって、裁判審理は、裁判官がイメージする「原告は悪」、「正義のスーパーホテル」という構図のまま、終始、和解工作か省略、原告不利に進んで行く。そうでなければ、傍聴人を退室させられる進行協議を語り、毎期日に和解工作するはずがないことは、明々白々なのだ。

こうした反則プレーを審理の誘導や牽制などに使う“ずる賢さ”と“図々しさ”を合わせ持つ、経験年数の長い人物が東京や大阪のような大地裁の裁判長となるようだ。

この裁判長から見て、右側の席を“右陪席”と呼び、「中堅の裁判官」が座る。左側の席には“左陪席”の「新人の裁判官」が座る。以下、右陪席、左陪席と略す。

瀬木比呂志氏の同書は、「裁判所の問題点」に警鐘を鳴らすものであり、メンバーたちに裁判官の意図を予測させるのに役立った。

当然のように裁判の「審理」は、茶番劇に見えてくる―—

法廷という非日常的な空間にいるせいか、“強引に”裁判を進めようとする裁判長の姿は、バラエティ番組の“仕込み役”の「司会者」に思えてしまう。裁判官たちの言動は“演技”のようで、法服はテレビ局の“衣装”に感じてしまい、吹き出しそうになることもあった。

そうしたせいか達観してしまい、裁判官たちを観察して見えたことがある。それは、裁判官たちが事件に“まったく興味がない”ことだ。眠たそうにアクビをする左陪席、ひたすら和解を持ち出す裁判長、そして、本質を理解しているのか怪しい、首をかしげるだけの右陪席。

裁判官こそ、多彩な社会経験を有した者から任命すべき存在である。

ところが、これまで見てきた裁判官たちは、司法の官僚のようであった。官僚は、法律に基づき仕事をする。決して自ら判断して仕事はできない。卒なく仕事を早く処理することが評価につながる。

しかし、裁判官の仕事は、“官僚のもの”とは、まったく異なるはすだ。

さまざまな事件に潜む本質を理解して、原告と被告の主張から“書くべき判決”においてのみ、評価を得る存在であろう。メンバーたちが見た裁判官とは、事件処理の量ばかり気にして、自らの判決が与える社会的影響を一顧だにしない。

波風立てずに出世したい――ただ、それだけの公務員だった。