a

Menu

#1 昭和60年報告の図解でわかった―—名ばかり個人事業主は『見なし型』と『募集型』に発展した

自民党版現代奴隷制度

今度は、「労働者性判断」から昭和60年報告を究明しよう。

たとえば、ウーバーイーツユニオンの組合員たちは、「労組法上の労働者」が認められた。しかし、同組合員たちは、労基法の労働者ではない。

労働者性の適用は、労基法と労組法では、労働者の意義が異なっており、労基法上の労働者は労組法にも適用されるが、その反対は適用されない。

行政によって、こうした「一方通行な適用」が行われている。

『労働法はフリーランスを守れるか――これからの雇用社会を考える』において、労働者概念の大家である橋本教授は、つぎのように述べている。

なぜ同じような判断基準を用いながら、労基法では労働者性が狭く判断され、労組法では広く判断されているのか、その理由を明らかにすることは困難な状況である。

橋本陽子著. 労働法はフリーランスを守れるか――これからの雇用社会を考える. ちくま新書, 2024年, p.98

研究者が解明できないのはさておき——問題は、「労組法では広く判断されている」のが重要だ。“適用されやすい”労組法が、もしも労基法と整合性があったら。すなわち、昭和60年報告という制度が“崩壊”してしまう。

自民党は、“恣意的な理由”から一方通行な適用を定めているのだ。

労組法が「適用されやすく」、労基法は「適用されにくい」労働者性の判断要素となっているから、昭和60年報告は“堅持できる”のである。

昭和60年報告の堅持を統計データで見れば、相当な無理のある制度だとよくわかる。そこで、「労働者」と「国民」という単語をすべての現行法(憲法を含めて)から調べて、つぎの表を作成した。

法律に「労働者」と「国民(日本国民)」が使用された状況の比較

表は横スクロールできます(スマホ閲覧時)。

単 語 名 法律数 比率 条文内箇所数 比率 労働組合法
条文内箇所数
労 働 者 212 1 3247 1 35
国民(日本国民) 895 4.2 6242 1.9 0

出典:『E-GOV法令検索』より算出して作成したもの

同組合員たちは、労組法の労働者だから同法の条文内「35」箇所で使われた「労働者」に該当している。ところが、労働者という単語は、「212」の法律で利用され、それら法律の条文内では「3247」箇所も使われていた。

差し引きすると、「211」の法律、その条文内「3212」箇所で使用された労働者には、この同組合員たちが含まれていない。

こんな乱暴な単語の使用は、公序良俗に反して無効であろう!

労働者よりもっと使用頻度の高い「国民(日本国民)」と比べると、日本社会の秩序を乱す自民党のひどさが、はっきりとわかる。

国民は、「895」の法律、その条文内「6242」箇所で使用されている。この国民は、憲法第10条で制定され、国籍法の要件を満たす者である。

すなわち、すべての法律に「国民」は、同じ意義で使われているのだ。

本来ならば、政府自民党が「労働者の意義」に整合性を持たせ、憲法の基本的人権を保障した制度設計を行わなければならない。すべては昭和60年報告を堅持するため、労基法の労働者性は「狭く」判断され、「一方通行な適用」が存在することに思い当たると思う。

労基法第1条で労働条件とは、「労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。」とされている。

同組合員たちのような労働者は、「人たるに値する生活を営む」基本的な条件を獲得できず、ストライキ権などで実現不可能な団体交渉を行うしか選択肢がない。

「人たるに値しない生活」で働く、それが労組法の労働者なのか―—

つぎに「労基法の労働者性判断」について、昭和60年報告の判断基準を図解し、可視化された結果から究明する。

橋本教授は、メンバーたちの裁判証拠『甲240号証 鑑定意見書』(学習院大学法学部教授橋本陽子、令和4年7月19日)において、「ビクターサービスエンジニアリング事件(最3小判平成24・2・21民集60巻3号955頁)」の最高裁判決を、つぎのように紹介した。

事業者性の意義については、最高裁は、「個人代行店が自らの独立した経営判断に基づいてその業務内容を差配して収益管理を行う機会が実態として確保されていたか否か」であると定式化している。かかる定義は、労組法上の労働者性と対比される事業者性として述べられたものであるが、労基法上の労働者性についても基本的に妥当する。

橋本陽子著.  甲240号証 鑑定意見書, 2022年7月19日, p.4

原告を「労組法上の労働者」と認めた裁判だ。しかし、最高裁が定式化した「労働者性」と「事業者性」の対比は、労基法にも妥当するという提案である。

これにより労働者と事業者の「境界」をつぎの図のように“線引き”して、表すことができるようになった。図に引いた線で生じた「労働者」部分は、「本来の労基法上の労働者」の領域を示している。

つぎに「労働者」部分の内側に、労基法第9条(定義)の「使用従属性」の判断項目を入れて行く。

橋本教授の同書から「重視すべきでない判断要素」を再び引用し、労基研報告の「①から⑧」の判断要素を「労働者」部分の内側に、つぎの図のように書き込む。

①から⑧の判断要素で囲んだ「昭和60年報告の労働者」部分は、昭和60年報告が特定した「労基法上の労働者」が適用される部分である。しかし、紹介のように疑義が生じた判断要素が大半を占めていた。

文字が可視化されると、「事業者とは言えない者」の領域というのは、じつは「本来の労基法上の労働者」の領域であったことが、一目瞭然にわかると思う。

こうやって図解すると、まさに「事業者とは言えない者」を事業者と見なすことが、昭和60年報告の目的だったことがよくわかる。この“見なす”ことで誕生した事業者こそ、名ばかり個人事業主であった。

見なされた名ばかり個人事業主を『見なし型』と呼ぼう。

自民党によって、「脱法の震源地」とされたジャニーズ事務所、「芸能界」から名ばかり個人事業主は広まったようである。それまで雇用契約であった俳優も、徐々に事業者に転換される。

『ディスガイズド・エンプロイメント名ばかり個人事業主』には、「⑤不自由だけどフリーランス?——場所にも時間にも外見にも拘束される俳優」を(当時の)日本俳優連合国際部長森崎めぐみ氏が寄稿している。

ちなみに4番目に「④使い切った電池を入れ替えるような労働政策——「雇用によらないホテル副支配人」を体験して」をメンバーが寄稿した。

バブルが崩壊した1990年以降、解雇に厳格な規制はあったが、リストラ(整理解雇)のような「窓際族」と呼ばれた閑職に追いやること。また、社内いじめとも取られかねない成果主義などが行われた。

こうした閉塞感の中、90年代はじめごろから第3次ベンチャーブームが起きる。自由で活気のあるベンチャー企業への就職や起業家をめざす人口が形成された。

特に1995年(平成7年)は「インターネット元年」とも呼ばれ、パソコン・オタク(マニア)だけでなく、Windows95の発売がきっかけとなり、多くの人々がパソコンを求めるようになる。

結果、ICT関連市場に支えられたベンチャー企業が増加した。

そして、「阪神・淡路大震災」が発生し、地下鉄サリン事件が続いた震撼の年でもあった。さらに経済状況は、不良債権による住専問題で国会が紛糾し、就職氷河期は相変わらずのまま。

1997年(平成9年)ごろ、日本長期信用銀行、北海道拓殖銀行や山一証券など巨大金融が相次いで経営破綻する。

激動する日本社会に、多くの人々は「起業」を大きなリスクと捉えることなく、逆にチャンスと考える風潮が生まれた。こうした社会世相を反映し、「独立」「開業」を謳う求人広告に応募する“起業スタイル”が形成される。

これらに紛れて台頭したのが、『募集型』の名ばかり個人事業主であった。

労基法の手厚く高い人件費や組合闘争から解放されるため、「使用者」がこぞって個人事業主に仕立てる「独立」「開業」を募集するようになる。その一例として、リクルート転職情報誌『B-ing』の関西版にスーパーホテルの求人が、つぎのように掲載された。

リクルート転職情報誌『B-ing』の関西版(1996年11月21日)

同年2月リクルートは、独立や起業の情報誌、月間『アントレ』を創刊。使用者の新たな労働力確保のシフトは、リクルートの予測のとおりに、小さな経済規模でないことを如実に表していた。

それから時が流れて、スーパーホテル裁判がはじまる。

メンバーたちは、私財を投じて働きながら、東奔西走する殺人的なストレスの中、文字とおりに“汗”と“涙”を流し、直に有識者たちから授かった叡智で書いている。

すでに紹介した「中間搾取」の合法化政策(派遣法)は、売上高9兆円以上、就業人口約212万人へと派遣産業を急成長させた。同じく「昭和60年報告」も、我々(国民)が気づかぬうちに日本社会で一般化している。

『令和4年就業構造基本調査』によれば、2022年(令和4年)10月1日現在、「約209万人」のフリーランスが存在すると言う。全員が「名ばかり個人事業主」ではなく、“存在する”という意味で読んでほしい。

スーパーホテル業務委託契約は、『募集型』の典型である。

『募集型』の特徴について、『甲240号証 鑑定意見書』から橋本教授の指摘を踏まえて紹介する。

(前略) 契約で詳細に業務内容や業務遂行方法について予め定めてしまえば、これによって生じる義務は合意によるものであって、使用者の指揮命令権の行使を示す事情とはならないという考え方も可能であるが、このように考えると、予め契約やマニュアルで業務内容が詳細に規定された場合には、労働者性が認められなくなってしまう。

橋本陽子著.  甲240号証 鑑定意見書, 2022年7月19日, p.12

契約で生じる「義務」は、使用者の「指揮命令権の行使」ではない。

この論理により使用者の「思い通りに働かせる契約」という『募集型』の特徴がつくられている。労基署では、監督官に「統一的サービスを提供するためで指揮命令ではない」と、こう言わせて申告者を困惑させている。

さらに鑑定意見書を見よう。

ドイツでは、この問題は、「先取りされた指揮命令権」として論じられ、 (中略) 契約上の義務づけから生じる拘束性を、労働契約の定義を定めた民法典611a条の「他人決定の活動」(他人決定性)という文言の内容として、労働者性の判断において重視されるようになっている。

橋本陽子著.  甲240号証 鑑定意見書, 2022年7月19日, p.12

橋本教授は、ドイツの判例が日本にも存在することを述べる。

詳細に業務を定めた契約の義務は、指揮命令と認識されない。それを「先取りされた指揮命令権」とドイツでは呼ぶらしい。その解決策の「他人決定性」は、日本にもつぎのように存在すると言う。

 (中略) 厳密にいえば、日本には、活動の他人決定性という判断要素はないものの、他人決定性は指揮命令拘束性とほぼ同義であることから、日本では、「業務内容・業務遂行方法における指揮監督」の判断要素に含まれると解することができよう。 (後略) 

橋本陽子著.  甲240号証 鑑定意見書, 2022年7月19日, p.12

橋本教授は、ドイツの他人決定性と日本の労働者性の判断要素を一致させ、間違った判断が行われないよう指摘している。