裁判官が書く判決には、明らかに「間違った判決」がある。その典型例は統一教会に関連する「献金返還」の裁判であろう。
ある高齢女性が教団側からの執拗な献金催促によって、1億円以上もの高額な献金を行ってしまう。すでに亡くなった夫と共に、丹精込めて育てた果樹園の売却金も、そこには含まれていた。高齢女性は老後の生計を立てる貯金を失い、教団を脱会する。
2015年(平成27年)に高齢女性の娘が帰省した際、この事実を知り、悪質な献金の返還を教団側に求めた。しかし、教団側は返還に応じず、親子は提訴に踏み切った。
すると裁判において、教団側より「驚くべき証拠」が提出される。
それは「寄付ないし献金は、私が自由意思によって行ったもの」「損害賠償請求など、裁判上・裁判外を含め、一切行わないことをここにお約束します。」と印刷された『念書』であった。
この念書には高齢女性の「署名」と「押印」がある。
さらに教団側は念書の作成について、高齢女性に意思確認させる様子をビデオに撮影まで行っていたのである。撮影当時、86歳であった女性は認知症がはじまっていた。この7ヶ月後にアルツハイマー型認知症と診断されている。
裁判の争点は「念書の有効性」である。
東京地裁(第一審)は、ビデオ撮影の内容について「映像のやりとりに不審な点は見受けられない」とした。また念書は「正常な判断能力に基づいて作成された」と裁判官は述べ、念書は有効だと認定する。その結果、原告の訴えは退けられた。
そして、高裁審理中に原告の高齢女性は亡くなった。
もうひとりの原告であった高齢女性の娘は、東京高裁(第二審)でも争ったが、第一審と同じ判断を下す裁判官によって敗訴する。すでに述べたように第三審の最高裁は必ず上告できるわけではない。
上告は憲法解釈の誤りや違憲であること、最高裁判例と異なる判決が下されたことなどの特別な場合しか開廷しない。
したがって事実上の「原告敗訴」が確定したと言ってよい。
「悪」を勝たせる裁判官によって「悪が正義」とされてきた。 もっと言えば、日本の司法が“正当な献金”だと統一教会の犯罪行為に、お墨付きを与えてきたのだ。詳しくは、つぎの報道を見てほしい。
この統一教会の判決は「契約させたら金になる」という単純な利益源泉モデルを示しており、スーパーホテルのベンチャー支配人制度と称する「業務委託契約」が、締結した者を「奴隷化」させる手法と同じであった。
つまり、現金をじかに奪うか労働を強制して現金化する違いしかない。詳しくは「自民党の現代奴隷制」を見てほしい。
裁判官たちの「だましたもの勝ち」判決は、霊感商法や詐欺商法を行う統一教会のような犯罪組織を喜ばせ、たくさんの被害者を生み出してきた。
日本では、こうした犯罪組織が政府を動かせる勢力となっている。
現在、確認された統一教会に関係する政治家はウィキペディア『世界平和統一家庭連合と政界との関係』によると「207人」もいる。そのほとんどが自民党の政治家である。 さらに特定非営利活動法人情報公開クリアリングハウスが公開する「政治資金パーティー収入 裏金はおいくらでしたか?(裏金国会議員一覧)」の議員一覧と照合したところ、統一教会に関わる自民党の裏金議員は「28名」もいた。
戦後、日本の独立から70年以上が経過した。その間わずか4年ほどしか、自民党は野党を経験していない。自民党に集中する権力は、国民主権の「政策」をガレージセールのようにさまざまな団体・組織に叩き売られてきた。
同時に政権与党であることは「予算権」を握ることでもある。
司法の「裁判所」や「検察」が要求予算を国会で通過させるため、自民党の言いなりで判例や解釈、不起訴などをひねり出してきたことは想像に難くないことだろう。
事実、統一教会を「勝たせる判決」を裁判官に書かせてきた。
それ以外にも、東京高等検察庁の黒川検事長を閣議決定で定年延長した事件は、2020年(令和2年)のことであった。その東京高等検察庁において、裏金議員65名が一気に不起訴とされ、管轄の畝本直美検事長が検察トップの検事総長に抜擢された。
中日スポーツは「新検事総長・畝本直美氏、女性初起用で注目も…自民党裏金事件では検察ナンバー2 「露骨なごほうび人事」「巨悪を助けて出世コース」の声」と報道している。
しかし、2022年7月8日11時ごろ、ちょうど判決の翌日に状況が一変する。
自民党の安倍晋三元首相は、天宙平和連合(統一教会系)のイベント”Rally of Hope Think Tank 2022″ にオンラインでスピーチした。統一教会で安倍氏とつながるトランプ元大統領(当時)もスピーチしている。
自民党総理経験者が反社会組織と親密な関係にあることは、一般人の目からもわかる決定的な証拠であった。 そして、山上容疑者により安倍元首相銃撃事件が起きた。
これをきっかけに教団による高額献金の実態が全国報道された。先ほど述べた献金返還の裁判で原告だった女性は、この報道を受けて「教団を勝たせて終われない」という想いから最後の望みをかけて最高裁への上告に踏み切る。
2022年11月29日、国会においても旧統一教会の「被害者救済法案」をめぐり、当時の岸田総理はつぎのように答弁した。
念書を作成させ、あるいはビデオ撮影をしているということ自体が、法人等の勧誘の違法性を基礎づける要素の一つとなり、民法上の不法行為に基づく損害賠償請求が認められやすくなる可能性があると判断をいたします。
第210回国会 衆議院 予算委員会 第8号 令和4年11月29日 発言番号081 岸田文雄
岸田総理(当時)の政府見解は、地裁や高裁の判決を覆すものであった。さらに2022年12月、統一教会の被害者救済法が成立する。
これまで一連の「旧統一教会関連の裁判」では、“はじめて”最高裁で弁論が行われた。弁論は、判決内容を変更する場合に必要な手続きであるそうだ。メディア報道により統一教会の反社会性が広まり、自民党が手のひら返しする事態となった。
それに「最高裁判所」が同調した結果と言える。
これまで一連の「旧統一教会関連の裁判」では、“はじめて”最高裁で弁論が行われた。弁論は、判決内容を変更する場合に必要な手続きであるそうだ。メディア報道により統一教会の反社会性が広まり、自民党が手のひら返しする事態となった。
それに「最高裁判所」が同調した結果と言える。
最高裁は、東京高裁の「映像のやり取りに不審な点は見受けられない」ことから「念書は正常な判断能力に基づいて作成された」とする証拠に基づく事実認定について、その証拠の“存在”を否定すること(岸田内閣の政府見解のまま)で「公序良俗に反して無効」としたのだ。
そして「審理がつくされていない」として、東京高裁に審理やり直しを命じる。
最高裁の判決を受けて原告は「やっとまっとうな判決が出た――」と感想を述べ、続けて「なぜもっと早く、それは(念書の有効性)最高裁でなくてもできるはずのことでした――」と報道陣に語った。
この裁判において原告が第二審まで敗訴したのは、裁判官たちが「不動の判決」を書いたからだろうか。すなわち、裁判官は書面を読み込んで証拠を吟味し、原告・被告の主張を把握して本質をつかみ、憲法にはじまる法に照らして判決を書いたのだろうか。
そうであるならば、最高裁の弁論は開かれるはずがない。
よく考えてみれば、念書とビデオ撮影という「自由意思契約の捏造」が裁判官に見抜けなかった。ただ、それだけの事件なのである。
最高裁の判決も念書の有効性を「公序良俗に反して無効」という至極“的を得た”ものだった。もしも安倍元首相銃撃事件がなければ、最高裁はどうしたのだろうか。
こんなことすら見抜けない司法でよいのだろうか――
スーパーホテル裁判でも、メンバーたちはスーパーホテルから受けた深い精神的肉体的苦痛、正当な権利の救済を受けるために、働きながら東奔西走する殺人的なストレスの中、今日も調査・研究・告発に奮闘している。
自民党の労働者性判断基準(昭和60年報告)は「労働者にフリーランスを自認するよう強要する」ひどいものでしかない。
裁判官の多くには“労働法の素人”もいるはずだ。こうした裁判官の多くは、この判断基準に追随して「政府の下請け司法」のように振る舞うはずである。
やっかいなことに、スーパーホテル事件は統一教会の献金返還裁判と似ている。それは「契約締結の捏造」が同じように行われたからだ。ゆえに裁判官たちは、まったく見抜けず全貌の把握さえしていない。
メンバーたちが勝訴するためには、最高裁が開かれるほどの衝撃的な事件が起きないとあり得ないのだろうか――
中学の公民程度の知識で言うならば、三権分立のもと行政(政府)に対する法令の審査機関こそが「司法」であろう。裁判官は独立した職権によって、主権者の国民を守る憲法を反映した「独自判断」を示さねばならない。
紹介のようにスーパーホテル事件を含めて多くの「名ばかり個人事業主」の紛争には、日本が批准したILO強制労働条約(第29号)が示す「2つの判断基準」に該当している。労基法と同様に条約も扱われなければならないはずだ。
裁判長より「条約など関係ない、私が判断する」という言動を聞いたことがある。
多くの裁判官は労働法を知らず、「虎(司法)の威を借りた小役人」なのであろうか。世離れして、学ばず威張る法服の官僚なのだろうか。
それでも司法が独立した判断を下さねば、必然的に日本が崩壊する。
裁判でも証拠提出し、本論でも提示したように「破産者」や「個人再生」させて働かせる。そして「暴行監禁」して働けと恫喝する。スーパーホテルの高額賠償などの強迫にさらされて働き続けることは「契約義務」によるものではなく、指揮命令権を行使する「使用従属性」を示すものであり、業務委託の事業者ではないはずだ。
ゆえに脅迫されて労働することを「強制労働」というのではないか。
契約義務と個人の基本的人権が矛盾するような制度設計に「司法」が明確判断を下さねば、存在する意味がない。
自民党の犯罪合法化(派遣法・昭和60年報告)に、本来は「司法」が対決すべきであった。憲法の基本的人権を保障するために制定した「労基法」が脱法されたのだ。
自民党の悪政を「司法」が野放しにしたからこそ“今日の亡国化する日本”が生まれた。ILO強制労働条約に批准した国で強制労働が復活しているのが、何よりの証拠である。 統一教会の「念書の有効性」の裁判とは異なり、すでに最高裁は「事業者性」をつぎのように定式化している。
個人代行店が自らの独立した経営判断に基づいてその業務内容を差配して収益管理を行う機会が実態として確保されていたか否か
ビクターサービスエンジニアリング事件/最3小判/平成24・2・21
この判断基準の「実態」が確保されていなければ、事業者とは言えない。すなわち「事業者」でないものは「労働者」である。労基法と労組法の「労働者」の意義が異なる、こんな愚かしい“言葉遊び”も終わりにすべきである。
「司法」が憲法に従い判断する“その時”は、もう来ている。
現在進行形で続く日本の“不安定な雇用社会”を変える分岐点、司法こそが日本人に折り返す先の「未来を示す鏡」とならねばならぬ。
「もっと早く最高裁でなくとも、それはできるはず――」と被害者にこれ以上、この言葉を言わせては行けない。